南海化学100年史


独創の軌跡

第4章 堅実 昭和29年~昭和47年(1954年~1972年)

戦後復興をほぼ成し遂げた昭和29年頃から日本の景気は上昇した。32年中頃までの好況は「神武景気」と呼ばれ、さらに33年からは長期にわたる「岩戸景気」が続いた。

東京オリンピックや日本万国博覧会など、国際社会での存在感が高まる中、産業界も造船、鉄鋼、自動車、家電、合成繊維、化学肥料など多くの分野で世界の一、二位を争うにまで成長したのである。

 

その一方で、高度経済成長のひずみといわれた公害問題が多発。拡大・成長を追い求めていた企業も、それまでの反省をこめて環境問題への関心を高めていくことになる。

 

この時代、南海化学は生産性の向上とコストダウンに積極的に取り組んだ。ソーダ製造法には隔膜法と水銀法があったが、隔膜法による苛性ソーダは品質上、需要増大していた化学繊維向けに適さないため、昭和37年、小雑賀工場は独自の水銀法に全面転換した。

 


一方で、土佐工場は製紙業への供給が主体のため、隔膜法を続け、ネルソン電解槽をU字型からW型に改良。能力を増強しつつ生産を行った。そして、製紙業へ確実に苛性ソーダと晒粉・晒液を販売する手段として、自ら製紙業に参入したのである。

昭和31年、南海製紙株式会社を設立。本社を高知市の旭工場に置き、土佐市の高岡工場、三重県上野市の上野工場の3工場体制で生産販売を行った。当初の狙い通り、土佐工場と小雑賀工場の苛性ソーダと晒粉・晒液の販売に大きく寄与したのである。