南海化学100年史


独創の軌跡

第3章 試練 昭和13年~昭和28年(1938年~1953年)

軍部の力はますます強大になり、経済に対する政府の統制は強まっていった。その影響は、原材料の調達や職員の徴兵など、南海化学にも大きな環境変化をもたらした。昭和14年、一貫製鉄を目指して熔鉱炉を建設中であった中山製鋼所との合併を選択することとなる。


統制経済の時代、鉄鋼業は国家にとって最優先の重要産業であった。そのプロセスのコークス炉で発生する副産物には、化学工業にとって貴重な原料になるものが豊富に存在するため、これらのを含めた事業の拡大に着目したのである。


石炭乾留の副産物処理により、軍需品である医薬・火薬・染料の原料や中間体を有利に製造し、軍に供給し、国策に貢献した。また、青岸工場で使用する硫化鉱の燃焼後の焼鉱すべてを製鉄原料として、製鉄事業へ供給できることもメリットがあった。

 

取締役社長は、中山製鋼所の創業者、中山悦治氏。小泉米蔵は、常務に迎えられた。ここに、南海化学は、中山製鋼所化学部となったのである。


昭和19年に入ると、戦況はますます悪化し、原料や維持補修機材の不足、人手不足、度重なる空襲などによって、生産活動は徐々に力を失っていった。コークス炉も全面停止に追い込まれた。

 

昭和20年7月の高知市空襲では、軍需品が主力の土佐化学工場が焼夷弾と爆弾により壊滅し、和歌山の2工場は直接の被害はなかったものの、生産に必要な電力が送電不能となり、休止した。

 

そして8月。ついに終戦を迎えた。中山製鋼所の全工場は休止した。

 

終戦とともに解散した中山製鋼所は、社員を解雇し、生産設備の保安管理の職員・工員を再雇用した。そして、化学部の各工場では生産設備の維持、復旧に要する資機材の調達に苦労しながら、職員の給与を確保すべく生活必需品の石鹸等の生産も行った。銃後を守った社員、戦地からの復員者や外地から引き揚げてきた社員・工員たちを中心に、逞しく一歩一歩生産の再開が進められた。


昭和21年、財閥解体により中山製鋼所は木津川製線株式会社、尼崎製鈑株式会社、そして南海化学工業株式会社と、計4社に分社・設立。新生南海化学工業の取締役社長には、中山保之が就任した。

 

また、民主化のもとで昭和21年4月、中山製鋼所和歌山、土佐両化学工場に労働組合が結成され、分離後の昭和22年、南海化学の和歌山・土佐・大垣・岡崎の4工場に支部、和歌山に本部を置き「労働組合組織化通知」を中山保之社長へ提出した。その後、組合は昭和28年、合化労連に和歌山・土佐ごとに加盟し、両組合での連合会を発足。執行委員長は塩路英二であった。

 


また、民主化のもとで昭和21年4月、中山製鋼所和歌山、土佐両化学工場に労働組合が結成され、分離後の昭和22年、南海化学の和歌山・土佐・大垣・岡崎の4工場に支部、和歌山に本部を置き「労働組合組織化通知」を中山保之社長へ提出した。その後、組合は昭和28年、合化労連に和歌山・土佐ごとに加盟し、両組合での連合会を発足。執行委員長は塩路英二であった。