和歌山における紀州綿ネル産業と同じように、土佐では江戸時代より和紙産業が栄え、発展していた。明治から大正にかけて生産技術の近代化が進み、生産量は全国の20%を占めていた。
そして、原料の三椏などを溶解させるための材料が木灰から苛性ソーダに切り替わり、漂白のための晒粉の消費も含めてソーダ・晒粉の需要が急速に増大していた。
こうしたなか、関東大震災の影響で、大正12年に解散していた土佐曹達株式会社の跡地に、大正14年に土佐硫曹株式会社を設立し、ネルソン式電解設備を建設。代表取締役社長に小泉米蔵が就任した。苛性ソーダ製造設備や晒粉製造設備の建設は、正田廉が陣頭指揮を執った。
昭和2年、日本除虫菊を合併。昭和3年、南海晒粉の取締役会で北島七兵衛が社長を辞任し、二代目社長に小泉米蔵が就任。名実ともに小泉体制となった。同じ年、土佐硫曹を合併し、現在の南海化学の原型となる和歌山と土佐の生産体制が出来上がったのである。
昭和6年、満州事変勃発。外国品の輸入が阻止されて輸出が伸張し、国内産業が大きく振興した。当社もこの時期に研究開発に重点を置き、次々と製品の開発に取り組み、活発に事業を展開した。
小雑賀工場では、新製品「クロルピクリン」「四塩化炭素」の工場増設とその後に続く新製品の研究開発・生産体制の確立を目指した。これらの中心的役割を果たしたのが、昭和2年入社の村井定男をはじめとする若手技術者たちであった。村井は入社8年目の若さで小雑賀工場長を勤めるとともに、この時期の開発製品のほとんどを手がけた功労者である。
昭和12年には、岐阜県大垣市の製薬会社、株式会社大垣製薬所と合併し、南海化学工業株式会社と改称。この合併により、関西・四国・東海地区に拠点を有する化学工業薬品・医薬品・農薬殺虫剤などを製造販売する総合化学メーカーが誕生したのである。