南海化学100年史


独創の軌跡

第1章 起 業 明治39年~大正13年(1906年~1924年)

明治39年10月26日。地元和歌山の綿ネル産業の実業家や投資意欲の旺盛な資産家をスポンサーに、晒粉・硫酸・肥料事業に経験のある小泉米蔵を支配人として、南海硫肥株式会社が設立された。

 


綿ネル漂白用の「晒粉」、その原料となる「硫酸」、そして硫酸を原料とする「人造肥料」の製造・販売会社であった。本社を和歌山県海草郡湊村大字湊1570番地、通称鼠島に置き、ここに南海化学の創業第一歩が印されたのである。

 

当時は日露戦争終結直後で、戦争景気に後押しされた特需と起業ブームの末期にあった。しかし、設立と時を同じくして、硫酸・肥料は供給能力過剰により、市況が急速に悪化し、スポンサーたちの中に、将来性を不安視するメンバーが現れ、株の払い込みが滞った。そのため、小泉米蔵は地元に大きな需要がある晒粉のみの製造・販売とし、減資することを決意。社名も「南海晒粉株式会社」と改称したのである。

 

 


明治38年、紀伊製材会社を設立した米蔵は、新たな事業を模索していた。

渡米経験があり、内外の事情に明るかった米蔵は、化学会社設立のチャンスが到来したと感じ、とくに堺の硫酸晒粉株式会社で経験した晒粉・硫酸・過燐酸石灰の事業が有望だと考えたのである。

この時代、豊富な水を利用した水力発電事業も育っており、また、和歌山県内の飯盛鉱山で良質の硫化鉱が豊富に産出されることから、硫酸の原料が安価に入手できる見込みがあったことも、起業へと道を拓いた大きな要因であった。

米蔵は、さっそく紀州ネル関連の事業家や地元の資産家に働きかけた。

その結果、地元綿織物業界の大物実業家、北島七兵衛をはじめとする有志が、出資することになった。

 

 


小泉は、陣頭指揮を執って晒粉製造工場建設に当たるとともに、職員や工員の募集に奔走した。そして、明治40年7月に設備が苦難の末に完成し、「ルブラン式マンガン法」による本格的な晒粉製造事業を開始したのである。

綿ネルである「紀州ネル」の最盛期、和歌山県では全国シェアの約60%を生産しており、その漂白工程で晒粉が大量に消費されたため、南海晒粉は需要地生産の有利性を遺憾なく発揮して、順調なスタートをきることができたのである。

経営陣はさらなる晒粉の増産を計画するとともに、原料である硫酸の自社製造と、製品としての硫酸販売の可能性にも着目。硫酸製造の原材料である硫化鉄鉱を地元の飯盛鉱山から調達できる地の利もあることから、硫酸製造事業への新規参入を決意した。

明治43年、手狭になってきた鼠島工場より近隣の青岸に用地を確保し、硫酸製造工場の建設に着手。明治44年に工場が完成し、生産を開始した。その後、大正2年に硫酸第2工場を建設。生産能力は月産1,000トンとなった。

 

 


大正3年、化学品の重要な輸入元であったヨーロッパを取り巻く第一次世界大戦が勃発。戦時需要も手伝って化学品国産化のニーズと需要量は一気に増大した。

そうした中で、多様な工業用の原料として需要が増大してきていた苛性ソーダは、欧米からの輸入依存度が高く、良質の苛性ソーダはそのほとんどが欧米の電気分解技術で生産輸入されていた。もし国内での電解ソーダの生産が本格化すれば、副産物として、晒粉が大量に生産されることになり、南海晒粉にとって、まさに企業存亡に関わる一大事となる。

 

このため、先手を打って小泉米蔵は自らソーダ事業への参入を決意し、アメリカ、ワーナー・ケミカル社のネルソン式電解特許を取得。大正5年、ネルソン式電解ソーダ事業会社として、南海曹達株式会社を設立。技術導入と修得のため、正田廉をアメリカへ派遣した。そして、大正7年、宮前村小雑賀に新工場を建設し、操業を開始した。年産生産能力は、苛性ソーダ720トン、晒粉840トンであった。

 


戦時景気の恩恵に浴した南海晒粉は、さらに事業を拡大することになる。

大正5年、鼠島に日本除虫菊株式会社を、大正7年には、富山県伏木に北海曹達株式会社を設立。また、大正6年にはわが国初の医療用石炭酸や各種染料を製造する由良染料株式会社の設立に参画。大正8年、青岸にバレンチナ式硝酸工場を新設するなど、時代の風を的確によみながら、大きく飛躍したのである。

 

 


地場の大企業として誰もが認め、ソーダ・晒粉業界や硫酸業界において確たる存在に発展した南海晒粉は、大正9年、和歌山株取引所に株式を上場した。当時の和歌山株式市場上場企業は、南海晒粉を含めて、27社であった。