南海化学100年史


創業物語

先人たちの進取の姿勢と強靭な意志

近代国家へ向けてようやく歩み始めた明治6年。

現在の和歌山県有田市で、南海化学創業者の一人、小泉米蔵が田中善左衛門の次男として誕生した。

田中家は、江戸時代から地元の殖産振興に貢献してきた名家であった。

 

米蔵は、その後小泉家の養子となり、和歌山中学に入学。

明治29年、大阪府堺市に硫酸晒粉株式会社が設立されると、実の兄である田中善吉が同社の支配人であったことから、兄の下で働きながら晒粉や硫酸などの製造法を学び、和歌山や堺の人脈も広げたのである。

 


米蔵は創業前までに、2度の渡米経験があり、西洋の文化や発展を遂げる産業に直接ふれるとともに、現地に留学していた同世代の若者たちとも親交を深め、知識を吸収し、化学工業が産業の中核を担うことを実感した。後の会社設立に、大きな影響を及ぼすことになる。

 

明治37年、日露戦争が勃発。政府は殖産興業の拡充と軍政の強化を図り、産業界に特需と起業ブームが起こった。

当時、和歌山では軍服などの需要増で、紀州ネル製造が隆盛を極めていた。綿ネルの加工技術は、手織りから力織機へと移り、なかでも捺染技術は一大発展を遂げていた。

この捺染の前工程で晒粉による漂白が不可欠であったため、晒粉の需要が増大していたのである。

 


明治38年、紀伊製材会社を設立した米蔵は、新たな事業を模索していた。

渡米経験があり、内外の事情に明るかった米蔵は、化学会社設立のチャンスが到来したと感じ、とくに堺の硫酸晒粉株式会社で経験した晒粉・硫酸・過燐酸石灰の事業が有望だと考えたのである。

この時代、豊富な水を利用した水力発電事業も育っており、また、和歌山県内の飯盛鉱山で良質の硫化鉱が豊富に産出されることから、硫酸の原料が安価に入手できる見込みがあったことも、起業へと道を拓いた大きな要因であった。

米蔵は、さっそく紀州ネル関連の事業家や地元の資産家に働きかけた。

その結果、地元綿織物業界の大物実業家、北島七兵衛をはじめとする有志が、出資することになった。

 


新会社の工場用地には紀ノ川河口の鼠島が選ばれた。

当時の物流手段は船舶が主力であり、紀ノ川では船舶による物流輸送が日常的に行われていた。

また、鼠島にほど近い青岸は和歌山最大の港であり、和歌山~大阪間の定期便があったことなどが工場立地選定の大きな要因であった。

 


社長には、出資者の一人、北島七兵衛が就任した。

そして、明治39年10月26日、南海化学の前身である南海硫肥株式会社が設立されたのである。

米蔵は、晒粉や硫酸などの生産技術を熟知していたことから、支配人となった。小泉米蔵、34歳の秋である。